空手界発展に尽力した空手家たちを紹介します。
代表的流派の創始者については、【空手の流派】のページで解説したのでここでは創始者以外の空手家を取り上げます。
現代空手は、伝統的に「形・型」を重視し伝承してきた会派と、実戦性を追い求め発展した会派に大きく分けることができます。
空手の歴史を調べる中でも、型重視と組手重視の唐手家が存在していたことを発見しました。
これは空手が内包する永遠のテーマなのかもしれません。
伝説的空手の大家に次代の空手家達が指導を受け、さらに次の世代に伝統をつないで、それは、首里手、那覇手、泊手の垣根を大きく越えていました。
トップページ末に掲載しました、【空手技術の交流図】をまとめるに際して分かったことは、空手は空手であり、沖縄の方言に「チャンプルー」がありますが、正に「ごちゃ混ぜ」であり、その結果、武術として進化、発展してきたとても沖縄らしい、とても日本らしい武術でした。
西平 親方
にしひら・うぇーかた
18世紀
琉球王国の伝説的武人(唐手家、槍術)
後の「本部御殿手(もとぶうどぅんでぃー)」などにも影響を与えたと考えられている。
「親方」とは、琉球王国の琉球士族の最高位の称号であり、極めて地位が高い人物のことを指します。
具志川 親方
ぐしかわ・うぇーかた
18世紀
琉球王国の伝説的武人(唐手家)
本部朝基著「私の唐手術」には、琉球随一の武人と称され、西方親方に師事し、若い頃に辱めを受け、それを機に武術を学び、御前試合で仇を討ったというエピソードが綴られている。
佐久川 寛賀
さくがわ かんが
不詳〜1867年
琉球王国時代の武術家であり、「唐手の祖」といわれる。
「佐久川の後に佐久川なし」といわれたほどの、力量の持ち主と称され、1756年清国から琉球はやってきた「公相君(クーサンクー)」から中国拳法の手ほどきを受けた。
「公相君(クーサンクー)」は、現在でも書く流派の型として残っています。
この型は、佐久川が師の技をまとめて考案した、あるいは師から授かったものとされている。
その後も清国に渡り中国武術を学んだ。
また、棒術の型「佐久川の棍」を創作した。
松村 宗棍
まつむら そうこん
1809年~1899年(享年91歳)
琉球王国時代に活躍した、最も偉大な唐手家であり、現在の「首里手系」空手家はのほとんどは、松村の流れを汲むと言われています。

松村は、幼少の頃より武に優れ、口碑では唐手(とうで)を佐久川寛賀に学んだとされ、17、8歳の頃には、すでに武術家として頭角を現し始めたといいます。
成人してからは、役人として薩摩に渡り、伊集院弥七郎から示現流を学び、免許皆伝を得たとされる剣術家でもあった。
また1836年(天保7年)、師匠の佐久川寛賀と共に北京へ渡り、勉学のかたわら、北京王宮の武術教官「イワァー」のもとで、中国武術も学んだとも伝えられています。
弟子の糸洲安恒が型稽古に主軸をおき、また那覇手の影響を受けて「身体を堅める稽古法」を重視したのに対して、松村宗棍はむしろ実戦(組手)と柔軟性を重視した稽古法だったとされます。
直弟子の本部朝基は著書「私の唐手術」において次のように記録しています。
・松村先生は決して力一方の武士ではなかった
・常に静中動きを見て運用自在であつた
・常に其の型の稽古は力の入れ方及び型の運用に意を注いで居れた
・その稽古法は敏捷性や型分解、組手を重視していた
安里 安恒
あさと あんこう
1827年~1903年
琉球王国時代から明治にかけての沖縄の唐手家
首里手の大家の一人
18歳の頃、首里手の大家・松村宗棍に入門。
安里は身が軽く、繰り出す技が素早かったといわれる。
「人の手足は剣と思え」という安里の言葉が伝えられている。
弟子には、船越義珍がいる。
松茂良 興作
まつもら こうさく
1829年~1898年
琉球王国時代から明治にかけて活躍した唐手家
泊手中興の祖
宇久親雲上嘉隆に3年間師事し、泊手のナイハンチを学ぶ。
その後、照屋規箴に師事し、パッサイ、ワンシュウなどの型を学ぶ。
また、「フルヘーリン」中国人からも中国武術を学ぶ。
糸洲 安恒
いとす あんこう
1831年~1915年(享年84歳)
琉球王国時代から明治に掛けて活躍した唐手の大家。
唐手の近代化に着手した最初の唐手家。
20代の頃、首里手の大家・松村宗棍に師事した。
次いで、那覇手の長浜筑登之親雲上(武士長浜)に師事する。
首里手だけでなく泊手、那覇手など幅広く修行した。
平安の形初段から五段を創作し、学校教育の場に空手を採用させた。
この功労はとても大きなものであり、同時に空手のスポーツ化を進めたことがあげられる。

以前、糸洲安恒は首里手の代表格として紹介されていたが、最近では屋部憲通や本部朝基など直弟子が語る糸洲安恒像は、むしろ那覇手(東恩納寛量以前の那覇手)の影響が強かったことを証言している。
屋部憲通は、糸洲死去直後「翁は初め松村翁に学んだのだが、後年多くの感化を受けたのは那覇の長浜と云ふ人であった。翁の流儀は即ち那覇六分首里四分と云ふ方である」と語っている。本部朝基も 「松村宗棍の手では立ち方はナイファンチ立ちのみでそれをどちらかに捻ったものである。しかし、糸洲の手は猫足立ちが採用され、さらにはナイファンチ立ちもサンチン立ちの様に内側に締めあげている」と那覇手の影響が大きいと著書で書き記している。
稽古は形中心に行い、組手はあまりしなかった。
師匠の松村宗棍は「糸洲の技はのろくて、実戦に間に合いますまい」と話していたと言います。
新垣 世璋
あらかき せいしょう
1840年 – 1920年
琉球王国末期から明治期にかけて活躍した唐手家
那覇手の大家
鄭氏屋部親雲上に師事
弟子に、東恩納寛量がいる。
知花 朝章
ちばな ちょうしょう
1847年~1929年
琉球王国時代から大正にかけての沖縄県の唐手家、実業家、政治家
唐手は松村宗棍に師事した

大正3年、知花朝章は首里小学校で教員をしていた遠山寛賢に「知花公相君」を伝授した。
「知花公相君」は、遠山寛賢の系統で保存継承されており、現在も唯一残っている琉球王国時代の貴重な形である。
「知花公相君」は知花殿内に秘伝として伝わったものであり、糸洲安恒が猫足立ちに改変する以前の首里古流のナイファンチ立ちを主体とした立ち方を残している。
他には独自の連続手刀受け、跳躍からの伏せ技、さらに跳躍の連続技等の他の形には見られない高度な技術を保存している。
東恩納 寛量
ひがしおんな かんりょう
1853年~1915年
那覇手中興の祖
明治期を代表する唐手の大家

1873年、20歳の頃、那覇手の新垣世璋(1840年~1920年)のもとで、3年間ほど唐手を師事したとされる。
また、新垣に師事した後、新垣が通事(通訳)として清国へ渡航することになったため、湖城流の湖城大禎に一時期預けられ、そこでも修行したとの説もある。
清国への渡航については、時期や滞在年数や、中国武術の大家ルールーコウに師事したことやワイシンザンに師事したこと、その渡航時期や滞在期間など様々な説がある。
師ルールーコウから本格的な武術教授を受け、最終的にはルールーコウの師範代にまでなっているいる。
帰国後、東恩納は那覇で道場を開いた。文献上確認できる最初の弟子は、義村御殿の義村朝義。
その後、明治35年頃に、許田重発、宮城長順ら、のちの高弟となる若者たちが相次いで入門した。
他に摩文仁賢和、比嘉世幸、遠山寛賢などがいる。
喜屋武 朝徳
きゃん ちょうとく
1870年~1945年
沖縄県の唐手家
戦前における空手の大家の一人

15歳の時に父に唐手を師事した。
16歳、2年間、松村宗棍の指導を受け五十四歩を教わる。
その後は父について上京し、二松学舎で漢学を学んだ。
東京滞在中も父とともに唐手の鍛錬に励んでいたという。
東京には約9年滞在し、26歳の時帰郷した。
帰郷後、喜屋武朝徳は、泊手の大家・松茂良興作、親泊興寛らに師事した。
他にも、真栄田親雲上らにも師事したとされる。
38歳の頃、喜屋武は読谷村牧原に移住。
読谷村に住む北谷屋良(チャタンヤラ)(1740年~1812年 )の後裔から「公相君(クーサンクー)」の型を学ぶことができた。
その後、沖縄県立農林学校、嘉手納警察署などで唐手を指導した。
弟子には、松林流の創始者長嶺将真がいる。
死後、弟子たちが「少林寺流」を興す。
許田 重発
きょだ じゅうはつ
1887年~1968年
那覇手中興の祖
東恩納寛量の高弟の一人
東恩流の開祖
15歳の頃から那覇手の大家東恩納寛量に師事した。
昭和33年頃、自衛隊で空手指導を始めるにあたって、「東恩流」という流派名を名乗る。
許田の弟子には、伊良波長幸、村上勝美、許田重光、大西栄三、神崎和也などがいる。
船越 義豪
ふなこし ぎごう
1906年~1945年
沖縄県出身
船越義珍の三男
松濤館を設立

「日本の空手道と沖縄の郷土芸能を決定的に分ける空手道の技術を開発し始め、近代剣道や居合道を学んだ。義豪の空手道発展の取り組みは後に松濤館のスタイルを形成した」とウィキペディアにありました。
日本の空手道と沖縄の郷土芸能を決定的に分ける空手道の技術の意味するところは、まだ理解していません。
山口 剛玄
やまぐち ごうげん
1909年~1989年
全日本空手道剛柔会の創始者
鹿児島県出身

幼少時より薩摩示現流や柔術等を学ぶ。
14歳から沖縄県出身の丸田武雄に空手を師事。
1928年「剛柔流空手道拳法道場」を開設。
1928年、立命館大学専門部法科に入学し、唐手術研究会(空手道部)を創設した。
宮城長順は空手道普及のため頻繁に関西地方を訪れており、その際には、剛玄がお供をした。
立命館時代には剛玄は、度々京都市鞍馬山で、山籠もり修行をしていた。
この際に修験者らから指導を受けたらしい。
1937年、「唐手術」が「空手道」として大日本武徳会より認可されると、宮城長順から「剛玄」の名を授けられ、本土における空手道普及の命を受けた。
1950年、宮城長順を名誉会長とする全日本空手道剛柔会を創設。
1951年、宮城長順より、十段範士の号を授与される。
海外では、その猫のような身のこなしから、”THE CAT“とも呼ばれた。
弟子には、大山倍達らがいる。

中山 正敏
なかやま まさとし
1913年~1987年
山口県出身
日本空手協会設立者
初代首席師範
松濤館流空手道の中興の祖

1932年、拓殖大学に入学
船越義珍、船越義孝 (別名義豪)に師事
1948年、日本空手協会を任意団体として設立
1949年、日本空手協会 (JKA)の設立を支援
1958年、日本空手協会の首席師範に就任。
金澤 弘和
かなざわ ひろかず
1931年~2019年
岩手県出身
國際松濤館空手道連盟宗家・最高師範(十段)
拓殖大学空手部に在籍中、船越義珍、中山正敏らに松濤館流空手を学ぶ
世界中に空手を広めた功労者の一人

1978年、日本空手協会から独立し、國際松濤館空手道連盟を設立。
2002年、NPO法人国際武道院より、空手道名人十段位を授与される。
