起源と発展
空手の起源は諸説あり、沖縄(琉球王国)に古くからある「ティー」という武術が起源らしい。
この「ティー」とは「手」であり、沖縄において「ティー」が、自然発生的に誕生したのか、どこかの国から伝わったのかは定かではありません。
沖縄唐手の名手、本部朝基によって昭和7年に出版された「私の唐手術」に唐手の系統についての記載があります。
「古来、琉球に伝わる唐手は首里、那覇、泊の三系統に大別できる。もっともそれは流儀が異なるという意味ではなく、習練者の体質、その他の点より、各教授師範の方法を異にし、それが長い間の伝統となって伝わり来たったのである」
・首里は、稽古の初期は六分の力でもって習練し、ひたすら敏活を旨とした。
・那覇においては、それと反対に、十分の力を傾注して、もっぱら筋骨の発達に意を用いた。
・泊は貿易港で、清国の武術の影響もあり首里、那覇と趣を異にする系統を伝えた。
とあり、このことをわきまえずに、後世の者がこの三系統が琉球に伝わる唐手の流儀であると誤って伝え、「その基本姿勢までも、根本から異なるように流布した…」
基本姿勢は、いずれの場合も八文字立ちで、力の入れ方、足の扱い方など、すべて同一で、その間少しの差異なく、いずれも一得一失あれど、稽古者はただ敏活を期することが肝要である。
との記載があります。
つまり、現在分類分けされている「首里手、那覇手、泊手」という系統的違いは、本来は正しくない。
簡単に言えば、先生の癖みたいなもの。
動きの身軽な先生、力がありどっしりした先生。
教え方に違いが生じても、その根本は変わらないということです。
現在でも、同じ道場であっても指導する人により多少の違いは生じますから、それが伝統的に何代か続けば動きは変わってきます。
三系統の地域を下図で見てください。
沖縄本島の南端の狭い地区に那覇、首里、泊が集中しています。この点からもそれほど大きな違いが生じるとは考えられません。

ただ、始まりは同じ技術体系だったものが、先人たちの創意工夫の結果なのか、それぞれの特徴が顕著になり、現代空手ではそれぞれ大きな特徴を有しています。
那覇手の範疇の剛柔流の創始者である東恩納寛量は、中国拳法の技術を取り入れ、接近戦と柔軟な動き、三戦の型、呼吸法の鍛錬など那覇手の技術体系を積み上げていきました。
上地流は、創始者上地完文が清国福建省で「南派少林拳パンガヰヌーン拳法」の免許皆伝を受け、開手による三戦、指先を極限まで鍛えての攻撃など、中国拳法の技術を色濃く残し、他の空手とは異質であり、空手といえるのだろうかという疑問がありますが、上地完文が日本に道場を開く際に、空手道の「道」の部分の精神性を体系化し空手道としての完成をみました。
那覇手を例に挙げましたが、当初は狭い地域での表面的差異でしかなかった三系統の空手が、新たな技術の開発や他の武術の影響を受けての変化を経て、それぞれの系統が大きく飛躍し現在に至っているといえます。
三系統のその違いを簡単に説明します。
【首里手】
軽快な身のこなし、跳躍やスピードを重視し、直線的な攻防を得意とする。
琉球王国時代、首里地域の士族たち中心に伝承されてきた
小林流、松林流、松濤館流ほか
【那覇手】
接近した間合いでの戦い、呼吸法を用いた重厚な空手
那覇の商人や職人を中心に発展した
剛柔流、上地流ほか
【泊手】
片脚立ちのような不安定な姿勢から相手の懐に飛び込む「入り身」
技のスピードと力強さが特徴
本部流ほか
失伝の危機から
19世紀頃の沖縄においての唐手は、一子相伝的に師から少人数の弟子へ「口伝」により型を伝えるというものであり、秘密主義的な面が強く、流派は無く道場を構えることも無く、裏庭で、夜中にコッソリ指導をしていました。
やがて、廃藩置県により琉球王国は消滅し沖縄県となるなか、社会変動の波にのまれ、経済的にも唐手を続ける余裕の無い元士族もあり、技術の途絶える危機に見舞われましたが、それでも「失伝」することなく続いていたのは、沖縄には「武芸を誇りとする家系」が複数存在しており、師匠たちは「この技は残さねばならない」という意識が強かったためだといわれています。
20世紀初頭、糸洲安恒が唐手の技を整備、「平安の型」を創案し、武術としてではなく「体育教育」の目的で、学校教育の場に取り入れられました。
それにより社会的に広がり、唐手は失伝の危機を乗り越えることができました。
唐手から空手へ
「唐手」は、「唐から伝わったティー」であり、昭和初期、船越義珍が日本本土に唐手を伝え、さらに他の唐手家たちも後に続きました。
唐手が全国的に広がる過程で徐々に名称変更の気運も高まりはじめました。
では、「唐手から空手へ」いつ誰の手によって改称されたのだろうか。
「唐手」という名称は歴史が古く、沖縄県の人たちにとってもなじみ深いものだったのではないだろうか。それが「唐」=「中国」というイメージがいやだからという理由だけで替えられるほど浅いものではかった
改称に至った経緯についてはいくつか説があります。
1つ目は、昭和3年、慶應義塾大学の「唐手研究会」から改称の議論が起こり、昭和5年に「空手研究会」に改称されたことによる説。
2つ目は、松濤館の船越義珍が、仏典の般若心経の「色即是空」の空の字を借用して「空手」と改めたという説。
3つ目は、昭和11年琉球新報社主催の「唐手座談会」での提案がきっかけという説。
があります。
これらの説は、2008年「武道」10月号に連載されていた「唐手から空手へ」という金城裕氏の検証文の一部を要約し掲載しました。。
空手の歴史の一端を知ることは、空手を志す者としてとても興味深い内容でした。
日本本土への普及
1922年、お茶の水の東京博物館で、31日間にわたって開催された文部省主催の第一回運動体育展覧会において、船越義珍が唐手の型、練習機、その他の写真、沿革等を自ら説明を行い、これをきっかけに大学を中心に唐手の普及が進みました。
その裏では、講道館柔道の嘉納治五郎が空手に興味を持ち、空手普及の後押しをしてくれた、という事実についても興味深いものがあります。
嘉納治五郎自身、柔術を柔道にまとめるに際し、当て身を無くしていました。
将来的には当て身を柔道に復活させることが、柔道の完成した姿であるとしていたことが知られています。夢は叶わなかったようですが。
現代の空手
現在の空手は、伝統空手と戦後に分派した実戦空手と大きく分けると分かり易いかもしれません。
沖縄で発祥した「唐手」が船越義珍らによって日本本土に伝わり、その伝統的技術体系を基盤に受け継がれて、発展してきた空手を伝統空手と呼んでいます。
その源流は、沖縄で「首里手、那覇手、泊手」という地域色で分けられる三系統にあり、それが日本本土に広まる過程で松濤館、剛柔流、和道流、糸東流(四大流派)などの流派が形作られて現在に至ります。
その稽古は、「型(形)」稽古を中心に空手の動作や攻防の原理を学びつつ、武道的礼節や人格形成を重視した生涯スポーツとしての側面を重視しているのが特徴です。
また、競技スポーツとして組手と型の大会が開催されており、2021年に開催された東京オリンピックでは、追加種目として組手と型競技がテレビで放映されました。
組手は、武術的強さよりも、基本的技の正確さが求められ、そのルールは技を急所の手前で当てずに極めるという寸止め方式を採用しています。
次に、その伝統空手と対局に位置するの実戦空手です。
大山倍達の創始した極真会館とそこからさらに派生し、実戦性を模索していく芦原会館、大道塾などが実戦空手の代表格といえます。
実際に技を当て、当てられ、それを防御しながら相手を制するという経験無くして本当の武術の力は養われない。
その系譜、発祥は沖縄唐手にあり、伝統空手と同じ範疇にあることには違いがありません。
沖縄の「唐手」時代にあっても、型の修得数のみを目指して修行と称することに異を唱え、野試合のような場で実戦を重ね武術としての鍛錬を積み重ねてきた唐手家は多く存在しました。
村松宗棍や本部朝基がその筆頭として有名ですが、日本人の資質なのか、相手を殴る、蹴ることに対し「礼節や精神性」を重んじる唐手家たちにとっては、相容れないことなのかもしれません。
実戦空手の組手は、会派により多少の違いはあるものの、技を止めることなく、実際に相手の身体に技を当てる組手を行います。
