沖縄空手の歴史

伝説的武術「手(ティー)」とは
「手(ティー)」とは、15世紀から18世紀頃に琉球に古くからあった徒手武術で、中国武術の影響を受けつつ土着化した古武術といわれていますが、そのほかに沖縄角力(シマ)から発展した、本土から伝来した柔術などの説があります。
そして、18世紀中頃から「手(ティー)」に中国拳法の技法を取り入れ、唐手(トゥーディー)へと発展したといわれています。
「手(ティー)」の達人として、16世紀には、京阿波根 実基 という「手」の使い手がいたという記録があり、18世紀には、西平親方、具志川親方などが知られています。
次に掲げる唐手家たちの唐手(トゥーディー)に関する証言の中に、古の武術手(ティー)の存在についての言葉があります。
①船越義珍は、その著書『空手道教範』の中で、「近世、支那崇拝熱の高い時代に、数多の武人が支那と往来して支那拳法を稽古し、古来の拳法いわゆる『沖縄手』に之(これ)を加味して研究し、短を捨て長を採り、愈々(いよいよ)精妙を加えた」と説き、沖縄手に中国拳法が加わってできたものが唐手(トゥーディー)であるとの説を主張しています。
※「沖縄手」とは、「手(ティー)」のことをさす。
②摩文仁賢和は、「唐手(からて)」という呼称は明治34、5年頃、学校教育に採用された時につくられたものであり、それ以前の沖縄県の唐手家達は「沖縄拳法のことを単に『テ』と称するのに対して、支那拳法を『トゥーディー』と称して区別しておりました」と述べています。
③知花朝信は、師匠の糸洲安恒の話として「もと沖縄には『手』というのがあった。鬼大城などの武勇伝からもそれがわかる。のちに唐手がはいり、北谷屋良の『手』と唐手佐久川の拳法がひとつにされて、唐手(トゥーディー)になったといわれます」と、新聞紙上で述べています。
④安里安恒は、琉球新報(大正3年1月17日)で発表した「沖縄の武技」という記事において、「沖縄固有の武芸にして田舎の舞方(メーカタ)なるものが、いわゆる唐手の未だ発達せざる時代のそのままであろう」と述べている。「舞方」とは琉球舞踊の一種で、音曲に合わせて自由に踊る武術踊りで、戦前まで沖縄各地にみられました。
⑤金城裕は、「「手」とは古い時代に沖縄に伝来した中国拳法を起源とし、それが時代を経るに従って土着化したものではないかと推測する」
空手の起源:琉球王国時代
①唐手(トゥーディー)の成立
唐手(トゥーディー)とは、本来は中国武術のことでしたが、徐々に琉球王国古来の武術「手(ティー)」と中国武術が融合されていきました。これが唐手(トゥーディー)であり、唐手(カラテ)の源流武術の一つとされています。
唐手(トゥーディー)の言葉は、佐久川寛賀が唐手佐久川(トゥーディーさくがわ)と呼ばれていたことから、19世紀初頭頃から使用されていたと推測されています。
「唐手と云ふ名が判然世の中に知り亘るやうになったのは、赤田の唐手佐久川からである」と、安里安恒は述べています。
②中国武術との交流
佐久川寛賀は20代の頃、清国へ留学し中国武術を学びました。
帰郷して沖縄古伝の「手(ティー)」に、中国武術の技法を取り込んだことにより、唐手(トゥーディー)という、独自の変化、発展を遂げた沖縄独自の武術になったものと思われます。
その後も、各時代において交流の盛んだった清国に武術を学んだ先人達の創意工夫により、さらに武術進化を遂げていきます。
沖縄武術家は、清国へ渡航して、あるいは沖縄を訪れた清国の拳法家などと接触し、機会あるごとに技法や理念を学び、唐手(トゥーディー)は、より高度な沖縄武術体系を持つ「唐手(カラテ)」へと変貌していきました。
※唐手(トゥーディー)から唐手(カラテ)へと名称が変わっていったのは、文献上1900年(明治34年)頃のことです。
③首里手・那覇手・泊手について
球王国時代、唐手(トゥーディー)に流派は存在せず、主にその伝承されていた地域性から多少の流儀の違いがありました。
行政で分類するために首里手、那覇手、泊手という名称分けし、戦後になって使用されはじめたと考えられ、大正時代や昭和初期以前の文献には、それらの用語は見当たりません。
本部朝基は、「古来、琉球に伝はれる唐手(トゥーディー)は首里・那覇・泊の三大系統に大別することが出来る」と、地域的な特徴があったこと述べています。
さらに「首里では、六分の力でもって習練し、ひたすら敏活を旨とした。那覇では、十分の力を傾注し、専ら、筋骨の発達に意を用ひた」という旨のことばも残しています。
下図を見てもわかるように、沖縄本島の最南端の狭い地域に那覇、泊、首里が位置しています。
那覇空港から首里までは、せいぜい10km程度しか離れておらず、唐手の技法が異なって発展するほどの距離はありません。
それぞれの職業や人の出入りの違い、例えば士族が多いとか、清国との貿易の港とか、清国の人たちの居住区があるとか、そのような暮らしの違いから、唐手の技法にも多少の違いが生じていたのだろう。

【首里手】
首里は、政治、外交、学問、芸能などの中心地で、士族たちは官僚としての任務のかたわら、唐手(トゥーディー)を学び継承していきました。
技術の系譜としては、佐久川寛賀➡松村宗棍➡糸洲安恒、安里安恒、多和田真睦、喜屋武朝徳➡屋部憲通、花城長茂、徳田安文、城間真繁などに継承され、小林流の知花朝信、松濤館流の船越義珍、糸東流の摩文仁賢和などへと派生しました。
喜屋武朝徳の系統からは少林流・少林寺流が派生しました。
【那覇手】
那覇は、海岸に面し清国などとの商業を中心に栄えた都市です。
特に福州との関係が深く、久米村は福州を中心にした清国系渡来人の居住区で、清国からの武術者も多く、その影響のもと那覇手は育まれました。
技術の系譜としては、東恩納寛量➡糸東流の摩文仁賢和➡剛柔流開祖の宮城長順へと受け継がれました。
【泊手】
泊地域で発達した泊手は、宇久嘉隆と照屋規箴が元祖と言われています。この二人から親泊興寛、山田義恵、松茂良興作など泊地方の士族たちによって受け継がれました。
泊手の特徴としては、首里手と大差はなく、那覇手の影響も見られる。
技術の系譜は、松茂良興作➡松林流の開祖長嶺将真へ受け継がれ、また、少林流系に多大な影響を与えた喜屋武朝徳も泊手を継承しています。
首里手・那覇手・泊手の系譜を理解するために「空手技術の交流図」をご覧ください。
参照:空手技術の交流図
④レジスタンスとしての武術
沖縄では、歴史上幾度かの外圧による禁武政策が行われました。
武器の製造、使用が禁止されたことにより、琉球王国を守るため密かに徒手武術が発展しました。
そして、琉球の伝統芸能である「舞方)(メーカタ)」の所作に、武術を「型」として隠して伝承したと考えられます。
琉球王国に対する禁武政策の歴史
・1609年(慶長14年)
薩摩藩は琉球王国に侵攻し支配する。
反乱防止のため「武具の製造や所持」を制限された。
・1879年(明治12年)
明治新政府の廃藩置県政策により、琉球王国を廃止し沖縄県が誕生。
武具の所持禁止、武術の公的な場での禁止がなされた。
以上をまとめると、薩摩藩支配下において、反乱防止のための「武具の製造や所持制限」から、徒手空拳の「手(ティー)」が生まれ、それが時代を経て中国拳法の影響などから「唐手(トゥーディー)」に進化した。
薩摩藩や明治政府による、武具の所持制限や武術の禁止令などから、「手(ティー)」や、その発展形である「唐手(トゥーディー)」は、「舞方という武術踊り」で秘密裏に伝承され、夜中の人目に付かない場所で「型」の伝承がなされるなど、沖縄武術特有の伝承形態を取らざるを得なかった。
沖縄武術は、手(ティー)に始まり、唐手(トゥーディー)、唐手(カラテ)、空手(カラテ)と進化はしたけれど、その成り立ちは、支配され続けた歴史的弱者が生み出した「レジスタンスの武術」であるという一面を持ち合わせています。
(舞方の一場面 棒術の型のような踊り)

(舞方の一場面 互いに組手の動作でスピーディに動く)

お祭りなどの際に、踊りとして披露する「舞方」に、棒術や組手のような動作を取り入れた踊りとして「手(ティー)」の技法を残し伝えたのだろうか。
衰退の危機に直面した唐手
沖縄で育まれた唐手(トゥーディー)は、現在のように広く知られる武道ではなく、長い歴史の中で何度も「技術が途絶えるかもしれない」という危機に直面してきました。
その背景には、社会構造の変化、政治的な出来事、そして近代化による価値観の転換が重なっていました。
①琉球王国時代末期
明治政府の新体制のもと、1879年(明治12年)琉球藩を廃し沖縄県へと社会構造が激変する中、官職に就いていた士族立ちは職を失い、結果、経済的に困窮し武術を続けていく余裕がなくなりました。
士族階級で継承されてきた唐手(トゥーディー)は失伝、つまり技術が途絶えてしまう危機が常にありました。
②武術の禁止、取り締まりの影響
19世紀から20世紀初頭にかけて、薩摩藩支配下や新政府が沖縄県に課した禁武制作(武具の所持禁止や武術の公的な場での禁止)の影響で、特に武器術(棒、釵など)は規制が激しくなりました。
唐手の稽古は「夜中に、密かに、家の裏庭」で閉鎖的に行われ、一般社会に学ぶ者はおらず「家系、個人の中で細々と伝わる」秘伝武術となりました。
指導は、主に口伝のため文字に残されず、唐手の師が亡くなれが技が途絶えてしまうこともありました。
③近代化と価値観の変化
明治から大正時代にかけての近代日本は、新しい西洋の価値観を急速に取り入れ、反面、日本古武術に伝わる身体操作法や鍛錬法は古臭いものとし若者たちの関心が薄れ、沖縄武術を学ぶ若者も減っていきました。
唐手の復興
沖縄の王国士族の没落や禁武制作などにより、幾度かの衰退の時期、そして失伝してしまう危機にあった唐手(トゥーディー)ですが、沖縄士族たちの使命感と糸洲安恒や船越義珍らの改革により、失伝の危機を逃れることができました。
①武芸に対する誇り
古来から伝わる、唐手(トゥーディー)を「家の宝」として守り続けた士族たちが、細々ではあるが稽古を続け、次代につないだことはとても大きな功績でした。
②唐手への熱い使命感
「この琉球の古伝の唐手(トゥーディー)という技術は絶やしてはいけない」という意識、使命感が強くあり、それを特に厳選した弟子たちに確実に伝える努力をしました。
③糸洲安恒の改革
琉球王国時代から明治にかけて活躍した唐手(カラテ)の大家糸洲安恒は、唐手の「近代化」に着手した最初の人物として知られています。
その近代化の具体的な内容は、
①一部の人たちにより秘密裏に行われていた唐手を、学校教育のカリキュラムに組み込み、一般市民へ解放しました。
②唐手を修行する目標を「敵と戦う武術」から、人格形成や自己鍛錬を目標とする「武道教育」へと再定義しました。
③統一されていなかった首里手系の型を整理、再編成しました。特にピンアンやナイハンチの型を学校教育向けに変更しました。
以上の改革により、後の空手家たちが日本本土へ空手を広げる際の基盤を整えたとの評価を得ています。
④唐手を本土へ
1922年(大正11年)、上京した船越義珍は、東京博物館(現、国立科学博物館)で4月30日から約1ヶ月にわたって開催された第一回運動体育展覧会において、唐手の型や組手、その他の写真、沿革等について自ら説明を行いました。
また、講道館柔道の嘉納治五郎とのつながりを得て、後続の唐手家たちの本土で活躍する足がかりを作りました。
まさに「近代空手道の父」の名にふさわしい業績を残しています。
⑤唐手から空手へ
「唐手」が全国的に広がる過程で徐々に名称変更の気運も高まりはじめました。
では、「唐手から空手へ」いつ誰の手によって改称されたのだろうか。
「唐手」という名称は歴史が古く、沖縄県の人たちにとってもなじみ深いものだったのではないだろうか。それが「唐」=「中国」というイメージがいやだからという理由だけで替えられるほど浅いものではかった。
改称に至った経緯についてはいくつか説があります。
①昭和3年、慶應義塾大学の「唐手研究会」から改称の議論が起こり、昭和5年に「空手研究会」に改称されたことによる説。
②松濤館の船越義珍が、仏典の般若心経の「色即是空」の空の字を借用して「空手」と改めたという説。
③昭和11年琉球新報社主催の「唐手座談会」での提案がきっかけという説。
があります。
これらの説は、2008年「武道」10月号に連載されていた「唐手から空手へ」という金城裕氏の検証文の一部を要約し掲載しました。
明確には、どの説が正しいのか僕にはわかりません。
①の説は、一大学の唐手研究会の名称変更が、唐手界全体に影響を及ぼすとは考えにくい。
②の説も、いくら「空手の父」と称される船越義珍の提案であっても、一唐手家の意見では変えられない。
③は、唐手界の大御所が一堂に会した座談会は、公に記録が残されており、そこでの発言には大変重みがあります。
そのように考えると、③の「唐手座談会」での意見がきっかけになったという説が一番自然なことに思えます。
戦後の空手界
①戦後の混乱期における沖縄空手の復興
1945年(昭和20年)沖縄の空手界は、戦災で多くの道場が焼失し、空手家も散りじりになり、空手自体が途絶えてしまう危機に見舞われました。
ところが、米軍による統治下において空手が文化として注目を浴び、米軍の基地内で空手の指導がされるようになりました。
時期を同じくして、本土からの空手の指導依頼や大学空手部からの招待などがあり、沖縄空手は再び活動が再開され、武道復興の足がかりとなりました。
②占領下の武道全面禁止と日本武道の復興
1945年(昭和20年)、終戦後GHQ占領下において、日本の民主化政策の一環として、武道は軍事色が強いという理由で剣道を筆頭に全面的に禁止されました。武道はこのまま衰退の道をたどる恐れがありました。
しかしながら、武道が生き延びる道として「スポーツとしての社会的承認」を得るため、武道復活に精魂を傾ける多くの関係者たちの苦心と努力が払われました。
1949年(昭和24年)、全日本柔道連盟と全日本弓道連盟が発足し、1952年(昭和27年)、全日本剣道連盟)が創立される等、それぞれ全国的組織の結成を行い新しい出発を図っていきました。
③沖縄空手の本土進出
1950年(昭和25年)以降、本土における日本武道の復興とともに、沖縄の空手家たちが本土に盛んに招かれました。
大学空手部や武道団体の「組織力」と沖縄の空手「技術」が結びつき、全国に展開して行くことになります。
④流派の体系化と組織化
沖縄においては、歴史的背景もあり、指導方法が統一されておらず、おのおのが異なる伝承方法をとっていましたが、空手を全国への普及するためには、流派としての指導体系を明確にしていくことが不可欠でした。そのために「指導方法の標準化」「流派の体系化」が求められました。
【全国組織の設立】
・日本空手協会(JKA)
・全日本空手道連盟(KJF)
・剛柔会、和道会、糸東会など、流派ごとの全国連盟の設立
⑤全国展開と競技化
1960年代頃になると、各流派での全国大会が開催されるようになり、「競技空手」が確立していきます。それにより、空手の知名度が上がり、一般層へと広がりをみせました。
空手の競技化にあたっては、「寸止めルール」「直説打撃ルール」「防具付きルール」など各団体ごとにルールが整備されました。
※詳細は【大会ルール】参照
現代の空手
組織の分裂状況
空手は、これまで述べてきたように、大会ルールは、寸止め空手、フルコン空手、防具付き空手と分かれて全国普及がなされましたが、組織が統一されておらず、昇段制度もそれぞれの基準で行われている現状であり、さらに困ったことに、誰であっても勝手に自流を立ち上げることができます。
このような状態が続くようでは、いつまで経っても空手道の社会的信用は柔道や剣道には遠く及ばないでしょう。
先人たちが時代の荒波の中、伝承し続けてきた空手をなお一層良い形にして次の世代に渡していくことが、私たち空手に携わる者にとっての責務であり課題だと考えています。
