よく言われることに、極真空手はじめ直説打撃制(フルコン空手)の大会ルールを採用する空手団体に対し、「あれは空手ではない」
このような意見を持つ人たちが少なからずいます。
例をあげれば、正拳中段突きという空手の象徴的といえる基本技があります。
普段の稽古でも、まず第一にこの基本技から始めるほどの基本中の基本といえる技です。
ところが、フルコン空手の大会で、忠実にこの突きを基本どおりに繰り出す選手を見たことがありません。
前屈立ちという基本中の基本の立ち方があります。
フルコン大会で前屈立ちで戦う選手はまずいないでしょう。
そのことを以て「フルコン空手は空手ではない」と言うわけです。
では本当の空手は何なのかというと、大会で基本に忠実な戦い方をしている「伝統空手」、伝統空手こそが正統な空手である、というロジックです。
これは正しいのだろうか。
いわゆる「伝統空手」といわれる流派は、大会においては「寸止めルール」を採用しています。
寸止めルールとは、相手の急所に届く手前10㎝程度手前で「極め」てそのタイミングや気合い、スタイルを総合的にみてポイントを判断します。
寸止めルールに対し、フルコン空手の大会ルールは、技を直接当ててノックアウトすれば「一本」、倒れなくてもダメージが見て取れれば「技あり」の採点がなされます。理想的なフォームか否かは問題ではありません。
どれほど綺麗な、基本に忠実な技を当てようとポイントにはなりません。
では、寸止めルールでは何故基本に忠実な技を出すのか。
その答えは基本に忠実に技を出さなければポイントとならないからに他なりません。
寸止めですから、相手をその技でノックアウトできるかどうかは採点対象ではありません。
ここが大切なことです。

極真会館が、1969年に第一回全日本空手道選手権大会を開催する際、顔面攻撃、金的攻撃を禁じ手とした直説打撃制のルールを発表しました。
それまでの伝統空手界は、空手の技は強烈である。この一撃必殺の技が当たれば「相手は死んでしまう」といい、伝統空手の人たちは、そのケガ人、死人がたくさん出るはずの大会を一目見ようと、会場に押し寄せたと言います。
しかし、結果はそんな悲惨な状況にはならず、伝統空手から腕自慢の猛者も多数出場して、図らずも、伝統空手対極真空手の形になったこの大会は、極真空手勢の圧勝で幕を閉じました。
これが実情です。
寸止めルールはフォームは空手の基本に忠実ですが、実戦では相手を倒すことができない。ここに空手の基本の不思議があります。
僕も入門当時から、この基本と実戦の技の溝に疑問がありました。
例えば、正拳を身体の脇または腰に置き、そこから技を繰り出します。
「杉板」をしっかり持ってもらい、そこに正拳を繰り出すと板を割ることができます。
ところが、同じ形で「サンドバッグ」や」「パンチングミッド」を空手の基本で打つとびっくりするほど衝撃を伝えられない、情けないパンチになります。
空手特有の鍛錬法に「巻き藁突き」があります。
基本技で突くとしっかり満足のいく突きができますが、これをいわゆるボクシングの打ち方で打つと、僕程度の鍛え方の正拳では、自分の腕が壊れるほどの衝撃が返ってきます。
結論を言います。
空手の基本のフォームでの攻撃は、固定された物には有効でも、柔軟に動く対象には不向きである。
ということです。
ですから、フルコン空手での戦いでは、正拳中段突きをそのまま実戦で使うことは「自殺行為に等しい」と言わざるを得ません。
そのため、「正拳あご打ち」や「下突き」などの技と「組手立ち」が用意されています。
これも基本であり、空手の進化でもあります。
伝統空手だって、昔は存在しなかったちょっとおかしな変速の蹴りがたくさん発明されています。これも空手なんだろう。


「空手は突く蹴るを主に敵を制圧する武術」である。これはだれも異を唱えることはできないと思います。そうであるならば、「敵を制圧できない空手は空手ではない」といえます。
ですから、「フルコン空手は基本に忠実でないから空手ではない」という理屈は破綻しています。
空手の流派の系図をみても、極真会館は沖縄空手から脈々と受け継がれてきた空手に他なりません。
その意味では、極真会館も伝統空手の末裔です。
現代の空手界にとって、正統、邪道の分け方は全く意味をなしません。
例えば、系譜だけで見たならば本来、上地流などは「パンガヰヌーン拳法」が源であり、中国拳法になってしまいます。
決してそんなことはないですね。上地流は立派な空手道です。
今、空手界が考えなければならないことは、
「基本技が組手で使えないのは何故か」
「空手界は基本と型の本来の意味を研究すべき」
「空手の大会ルールはどうあるべきか」
このことをしっかりと研究し、考え、指導にあたることだと僕は思います。



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