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空手とルールの問題は永遠である /空手が武道であることに異論はない 武術としての有り様が問われているのではないのか

 

「武道」という観点からすれば、自身の目標を追い求め、大会優勝をめざして、そのためにルールを研究し、試合時間に合わせたペース配分、禁じ手の考慮などをすることは全く問題のない素晴らしい空手道の一面だと思います。

その意味では、寸止めだろうがフルコンだろうが、当てなくても、顔面突きがなくても、そこに精神性が大きく関わってくる修行体系があれば立派な武道です。

  

  

問題なのは、大会優勝に向け日夜努力していることが、武術の修練として実戦的であるのか、競技の場では有効でも路上の戦いで使える理論なのかにあります。

  

問題は、武術として捉えた場合、ルールに特化した空手の技は「武術」として正しいのだろうかという点にあります。

一見、実戦性に問題などないように見えるフルコン空手にしても、大会には禁じ手があります。

・手技による首から上の部位への攻撃は禁じ手

・金的攻撃は禁じ手

・つかみ、投げは禁じ手

・倒れた相手への踏みつけなどの攻撃は禁じ手

大きな禁じ手だけでもこれだけあります。

 

禁じ手があるため使いやすくなった技があります。

・突きによるボディへの攻撃

・下段廻し蹴り

・上段廻し蹴り

  

禁じ手があるため使えなくなった技もあります。

・顔面への、正拳、裏拳、鉄槌、手刀、掌底、弧拳、猿臂

・貫手など手指を用いた顔面への技

・喉への刀峰

・倒れた相手への踏みつけ

・つかんでの膝蹴り

・蹴りに合わせた金的攻撃

・背中への攻撃

・頭突き

  

極真会館創始者大山倍達総裁は、大会ルールについて次のように語っていました。

・極真ルールについて

「極真空手の前身、大山道場時代は組手にルールなどなかった。禁じ手無しの組手でした。寸止めを否定し直説打撃を主張する大山道場としては当然の事です。でも、空手は殺し合いではない。毎日の稽古で怪我人が出てはこの現代に存在することはできない。そこで顔面に対しては掌底程度にしたりしていった。そのギリギリの一線が顔面強打の禁止なのです

「大会にはルールがあり、ルールに則り、ルールを利用しなければ勝てない。そこで顔面ガラ空きにした組手が多いのも知っている」

道場の稽古においては、禁じ手なしを想定した組手の指導、研究が十分なされているはずです。いつ顔面を殴り合ってもいい準備と精神力はどの選手、道場生にもあるでしょう。だからこそ極真空手が武道空手と言えるのです」

 

・寸止めルールの問題点について

「寸止めでは、一撃必殺は証明されない。本当に倒れるかは全く分からない

「寸止めでは、パワーの重要性、肉体鍛錬など、空手の基本的な要素が無視される」

「動きは単調で、技は単発、肉を切らせて骨を断つという本来の攻防も皆無である」

 

・防具着用について

「随分昔に研究したが、寸止めルールよりは防具着用したうえでの打撃ルールの方が優れている

「防具着用は、打撃による痛みを感じないため、肉体鍛錬が軽んじられ、パワーが無視される」

「防御が甘くなり、組手に緊張感がなくなる」

「素手・素足での攻防が空手であるという信念がある。顔面に防具を着用したルールでは、防具の上から渾身の力で殴れば、どんなに拳を鍛えようとも必ず手首を痛める

「脳への悪影響を考えるならば、防具着用ではなく素顔を殴った方がよい。防具を着けた場合、衝撃が後頭部に残り、パンチドランカーになる恐れがある。空手は殺し合いではない」

 

以上、様々なルールを想定した結果、決して完璧なルールではないが空手の本義を考え、技量を伸ばすことを考えた末に手技による顔面攻撃を禁じてとした直説打撃制「極真ルール」を採用したと語っていました。

 

このことからも、空手が武道であり、武術で有り続ける事は大変困難な事なのが分かります。

寸止めルールや防具着用ルールを採用している団体もあります。それぞれが、空手の武術性と武道性を体現するための大会ルールを模索した上でのことであると思います。

僕は、極真会館の歴史しか分かりませんので、大山倍達総裁の生前の話をここで取り上げました。

決して、他流に対する誹謗中傷ではありません

文中で「極真ルールは完璧ではない」と述べていました。

空手の大会はトロフィーをめざすためだけにあるのではなく、空手の技量向上が目的にあります。

大会で不足する点については道場で研究しなさいと言っていたわけです。

ところが近年、それまでの空手の基本には無い、明らかに大会の競技向けの技術が頻繁に見られるようになりました。

技術革新は大いに結構ですが、それは実戦でも使える技なのか。

この点がとても大切であり、先人達が「空手の技術が失われずに後生に生き続ける事」を願い試行錯誤してきたことを忘れてはいけない。

僕は、このことを言いたくてこの文を書きました。

  

  

 

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